メキシコでカップ麺8割以上のシェアを持つ「マルちゃん」は通用語になりつつあり、これは使用例。
床屋さんで「マルちゃんで頼むよ」。これって早めに仕上げてねという意味なのだそうです。
見学コースの入り口には、世界中で売られている商品が一覧で展示されていました。同じ赤いきつねでも、関東・関西など地域によって微妙に味を変えて作っているのだそうで、運送配達の関係から館林工場は関東と東北を特に受け持っているのだそうです。
ところで、今回の東北・関東大震災におけるマルちゃんの需要も飛び抜けて高く、館林工場は24時間のフル稼働。
地元工場なので私の友人も何人か従事しているのです。残業や休日出勤も多いことでしょうが、被災者のために頑張ってください。
大震災を予感したわけではありませんが、2月14日に東洋水産館林工場(正式名称は関東工場)を見学してきました。
「東洋水産」という会社名ではピンとこない方もいそうですが、「赤いきつね」と「緑のたぬき」で有名なカップ麺の「マルちゃん」だと表現すると、「ああ、あれを作っている会社ね」と納得する方も多いことでしょう。
東洋水産はアメリカ大陸にも進出していて、メキシコでは素早い・手早いことを「マルちゃん」と表現する通用語にすらなっているのです。
館林工場は赤生田町にて昨年操業を始めたばかり。「なぜ館林に工場を築いたの」ですって?それは、館林にはきつねの尾曳城伝説と、たぬきの分福茶釜伝説があるじゃないですか(笑)いえ、これは工場見学コースに書かれてあった実話です。
歴史的な建造物の多い館林なので、そういったものへの被害がどの程度なのか?
子供たちに可能な限り伝え継がなければならないと考え、デジカメを片手に自転車で走り回ってきました。
私が見るところ、建物そのものの倒壊はありませんでしたが、農村部の納屋で二階がズリ落ちそうなものや、多くの民家で屋根瓦の破損が著しいものが数多くありました。
写真は市の中心部にある歴史的な石蔵ですが、屋根瓦がすべて躍りを踊るように浮き上がってしまっています。
後日知ったことですが、館林における唯一の人的被害は「大震災で落ちてきた屋根瓦が頭に当たって」亡くなったというもので、これが大震災による群馬県で唯一の死亡者として報道されました。
「大名小路(だいみょうこうじ)」と呼ばれた町並みがあります。かつては大名クラスの武家が住まいを構えていた地域で、その頃からの名残なのか立派な門構えや庭を備えている邸宅が多いので、好みの散歩コースなのです。
ふと「あのあたりにも大谷石の塀があったな」と思いだし、足を伸ばしてみました。
すると、5号道路とまったく同じような状況で石塀が崩壊していました。
大谷石は栃木県大谷町(現・宇都宮市)から産出される軽石凝灰岩(ぎょうかいがん)で、加工がしやすいことから古墳の横穴式石室に使われたというほど古い歴史があります。
近世ではあの「帝国ホテル」の建材として用いられたことで特に名を知られ、明治中期に「大谷石ブーム」が起きました。
これらの大谷石塀は、おそらくそのころの造作なのでしょう。
100年前後の風雪に耐えてきた石塀を一瞬のうちに崩壊させた大地震。その巨大な痕跡は、このようなところにも現れています。
こちらは『社会福祉法人・館林社会福祉協議会』のイメージキャラクター『たーてん』です。
命名の由来は「館林へ舞い降りた福祉の天使」なのだそうで、館林の「たー」と天使の「てん」から、可愛らしい響きをとったということなのでしょうね。
誕生(というか館林に舞い降りた日時)は、平成22年2月22日午後2時22分22秒といいますから、館林のゆるキャラ観光大使「ぽんちゃん」の少しだけ妹ということになりますね。
この日は大人気で、大勢の子どもたちにまとわりつかれていましたが、観光客の要望により茂林寺のお狸様と3ショットの瞬間がありましたので、シャッターを切りました。
「館林社会福祉協議会とたーてん」のアドレスは以下のとおりです。
今も昔も子どもたちのお目当ては露天での買い物で、「学校帰りの買い食いなんてみっともないよ」と言っていた母も、お祭り日の買い食いだけはお目こぼししてくれたみたい。
ところで最近、若い女の子に人気なのが「カラーだるま」。小さくて部屋のインテリアにもなるからなのでしょう。
では、だるまの蘊蓄話パート2。そうして買って帰った「だるまの目玉」どうしてますか?
近頃は目の傷害がある人に失礼だから、両目を描き入れておくべきと主張する人もいるようですが、本来は願いを込めながら片方に目を描き、願いが叶ったらもう片方にも目を描くのが古来の伝統です。
右の目から?それとも左の目?特別な決まりはありませんが、右(つまり、だるまの左目)に目入れをするのが一般的で、反対の目には「叶」という字を書いておくという地方もあるようです。
東京タワーや冒険砦などがある、つつじ町の『電飾の城』ですが、イルミネーターである邸宅の持ち主と露天風呂に入りながら、いろいろなお話をうかがうことができました。
「毎年11月頃になるとLED電球を引っ張り出して、飾り始めるんですよ」
「今年は何を造ろうかなあなんて考えながら、完成まで1ヶ月くらいかかるけど楽しい」
「費用?そうだなあ・・高級車1台分よりハッキリかかったけどね」などなど。
得難い機会ですから別の浴槽にも入らせていただきましたが、ここでもビックリ。何と!そこには高低差3メートルくらいの滝が存在していたのです!?
水と緑は豊富ながら、海や山・温泉はないという平坦な館林ですが、それを「我が庭に実現してやろう」という驚くべき趣味人が、私の身近にいたのです。
「イルミネーション」とは、電球など淡い光の配置を組み合わせて、夜間の風景を創り出す光の芸術のこと。日本語で「電飾」と表現されることもありますね。
クリスマスが近づく頃に、東京・渋谷区の表参道並木に灯されるイルミネーションが有名ですが、かつては白熱電球を用いていたので、「長い期間さらされる熱によって街路樹が傷んでしまうことが悩みの種」だと聞いたことがあります。
個人で電飾を楽しむ人を見かけるようになったのは、ここ数年LED電球が普及し始めてからのことで、こうした人たちが「イルミネーター」と呼ばれるようになりました。
写真はつつじ町に存在する、館林で最大規模のイルミネーション。
『電飾の城』と表現するべきでしょうか。
館林駅到着の最終電車についてふれましたが、東京から館林駅に到着するためには、かつて宇都宮線「赤羽駅」22時30分、東武伊勢崎線「北千住駅」22時15分というのがリミットでした。
新宿・歌舞伎町で仲間と(打ち合わせという名目の)飲食をしていて、赤羽発や北千住発の最終電車に乗るためには21時30分頃(午後9時30分頃)には席を立たないと間に合わないわけで、「付き合いの悪い奴」という汚名を容赦なく浴びせかけられたものでした。
それが今では23時という宇都宮線・新宿発に乗れば、久喜で乗り換えて、0時28に館林駅に着くというのですから、何と!1時間半も終電時刻が延びたのですから驚きです。
ところで、写真は深夜の駅前通り。私の実家も右辺に写っていますが、街路樹に掲げられたイルミネーションが深夜の乗降客を癒しています。
商店街から長良神社に向かう道の右側域に、第一小学校があります。
館林で最も歴史のある小学校で、1873年・明治6年(何と138年前!)に開校され、「邑楽第一小学校」と呼ばれた時期もあるほどの伝統校なのです。
私が子どもの頃は「館林北小学校」ゆえに「きたしょう」もしくは「きたこう」と呼ばれていたのですが、昭和41年に「館林第一小学校」と改称して、今に至っています。
鎌倉時代から室町時代にかけての館林の創成期には、長良神社の広大な神域であったのでしょう。
江戸時代には代官が居住したことから「代官町」との名がつきました。道に面した第一小学校の一角には、写真の「代官町碑」が建っています。
これが館林に30ある「旧町名碑」の1つなのですが、何と!代官町とお隣の台宿町だけは、館林の大規模な町名変更の波に呑まれず、今も江戸時代の町名のままなのです。
館林第一小学校と第一中学校に隣接した地域に『長良(ながら)神社』があります。
長良神社の祭神は、平安京より東国平治のために遣わされた「藤原長良」公(802年~856年)で、長良公は東国にあって民を哀れみ、貧を救って仁恵を施したと伝えられています。
京に戻った長良公は位を極め、正一位・太政大臣を贈られており、陽成天皇の外祖父となっていますから、まさに「雲上人」でした。
『長良神社』は鎌倉時代の領主と思われる「赤井良遠」が、京の春日大社から佐貫の荘・長柄の瀬戸井村(現・千代田町)上の森に勧進したと伝えられています。
赤井氏は佐貫一族の出自であり、遠祖が藤原であったことから、長良(一説には「ながよし」)公を祭神とした神社を建立したものと思われます。
そのような理由で佐貫の荘(現在の館林・邑楽地区)には、長良神社の分社が数多く造られており、この代官町にある長良神社は社域の広さと社殿の壮麗さから、館林・邑楽地区における代表的な存在です。
元旦の『初日の出』が登り切った頃、ふと右(つまり西南の方向)に目を転じると、何と富士山が見えていました。
『初日の出』に加えて『初富士』まで拝めるとは、今年は何とよい年なのでしょうか!
館林から富士山を望むには、同じ方向の埼玉県熊谷地区と東京都多摩地区の上空が澄んでいなければなりません。ということで近年は館林から富士山が見える機会も少なくなったのですが、正月早々ラッキーなことでした。
ちなみに「気温が低く、おのずと空気中の水蒸気濃度が下がる冬の方が見通しがよい」ものだと理科の先生に習った記憶があります。
加えて正月で排気ガス濃度が薄かったことが原因だろう・・・などと蘊蓄を語るより、単純に「新年早々縁起がよい。今年はよい年になるぞう・・」と喜ぶ自分の方がカワイイ。
私の自宅付近から東方向をうかがうと、初日の出が近くにある住宅の陰になってしまいますので、デジカメを片手に自転車で東へ東へと移動しました。
お隣の板倉町泉野地区にある「いずみの公園」の橋上に至った頃、東南東の地平線から太陽の光がほの見え始めましたのでカメラを構えました。
遠くに見える人家の向こうから、午前6時55分に陽光が見え始め、初日の出がおおむね姿を現したこの写真。シャッターを切ったのが午前7時1分でした。
ちなみに『日の出』の定義、正しくは「太陽の上辺が地平線に接する瞬間」ですから、人家の高さ分を考慮に入れると「館林地方の初日の出は午前6時53分」くらいだったと思います。
ちなみに、初日の出の右に見える建物が「東洋大学板倉キャンパス」です。
館林の産業祭に思わぬ助っ人が現れました!同じ群馬県にある沼田市の応援です。
沼田市のブースは、「あゆの塩焼き」「りんご」など館林では産出しないものばかりが並んでいて、お客さんでにぎわっています。
考えてみれば、館林市は関東平野の隅に位置して、埼玉・栃木・茨城と隣接しており、沼田市は自然の宝庫・尾瀬の入り口。
さらに「板東太郎」と呼ばれた利根川の源流地域であり、文豪・川端康成の代表作『雪国』によって「国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国だった」と描かれた新潟県との隣接地域ですから、採れる川魚も、果物も館林とは大きく種類が違っているのは当然のことなのですね。
ちなみに、沼田は関東一のリンゴの産地。冬になると、秋に収穫したリンゴを雪の下に埋めて保存することが風物詩で、ニュースの時間にご覧になった方も多いのではないでしょうか?
館林邑楽地区は「群馬の米倉」といわれている地域ですから、JAかつての農協のおまつりは一大イベントになります。
邑楽町産業祭の日取りが明和町と重なってしまいましたので、私は邑楽町産業祭を楽しむことができませんでしたが、翌月の12月11日にJA西邑楽まつりがありましたので、たくさんの写真を撮りました。
歴史カテゴリーの中で「館林邑楽はかつて佐貫の庄と呼ばれていた」と記しましたが、それ以前の平安時代の資料に「オハラキ」「オホアラキ」との記述があるのです。
元々は「大荒木」と呼ばれていたようですが、大宝律令で「地名は縁起のよい漢字2文字で表すべし」との命令が下ってからは、「邑楽」の文字を用いて「オハラキ」と読ませ、やがて「オウラ」という呼称に統一されたという経過があるようです。
戦後の高度成長期に育った私にとって、『ミツカン』といえば「100%醸造酢はミツカン酢だけ」という企業メッセージを思い出します。
いまも日本酒には「醸造用アルコール使用」という表示があるものが多く、日本酒は工業的に作られたものが多すぎる・・・これを見直そう・・・ということで、ひととき純米吟醸酒ブームがおきたりしました。
日本酒をさらに発酵させると何になるかご存知ですか?お酢になるのです。この製法をいまの自然食ブームがおきる数十年も前から、頑なに守ってきた「ミツカン」社には、先に述べた事情により感心していました。
そのミツカンが工場を建てて館林に進出してくれたこと。『館林ミツカン』には感謝感謝です。
ところで、その館林ミツカンが何を作っているか?私は長く知らなかったのですが、産業祭で数多くの「鍋のつゆ」展示品を見て、ゆっくりながら「自然と共生して成長する」館林とコンセプトが一致する企業なんだなあとの印象を強くしました。
館林で採取している「はちみつ」を、実演即売しているコーナーがありました。
足利方面に向かって散歩すると、「はちみつ直売」と大書したカンバンをよく見かけていたのですが、これが『吉田養蜂園』でした。
おいしい「はちみつ」を採取するためには、新鮮な花が必要だという程度の知識はあるのですが、足利との県境・渡良瀬川付近には、まだそうしたミツバチを引き寄せる新鮮な花が群生しているのでしょうか?
後日改めて突撃取材を試みたいと思いますが、『吉田養蜂園』のアカシア蜂蜜を直接購入できるサイトが見つかりましたので、紹介しておきます。http://item.rakuten.co.jp/yonebun/852203/
鶴生田川の周辺地帯は湿地だったことを紹介しましたが、このあたり以前は「下町」という地名で呼ばれ、川が大雨や台風でよく氾濫したものでした。
その対策として護岸工事が何度も行われ、今では洪水することもなくなりましたが、川はコンクリートに囲まれた味気ない風景になってしまいました。
そこで市民グループは、年に2回子供たちの参加を募ってプランターを作り、すべての護岸補強橋に飾ることにしたのです。
写真右が寒さに強いパンジーのプランター。このプランター作りに参加した子供たちに豚汁がふるまわれ、鶴生田川の美化に努めた思い出として手こぎボートによるささやかなセーリングを楽しんでもらうことが習わしになったのです。
11月3日文化の日。この日の「三の丸芸術ホール」では、『市民古典芸能のつどい』が行われていました。
館林には謡曲、仕舞、吟詠、剣詩舞など、江戸時代から引き継がれた多くの古典芸能のサークルがあり、1年でもっとも大きな発表会。晴れの舞台です。
友人から「入場無料だし、ぜひ見に来てね」と誘われたので足を伸ばしたのですが、入り口でプログラムを頂戴して正直驚きました。
何と61!ものグループの参加があり、演目がギッシリと詰まっていたからです。館林にはこんなにも多くの古典芸能のサークルが日頃から活動していたのですね。
写真は男女混合グループによる『謡曲』。能の詞章だけを謡う芸事。立派な舞台設定にマッチし、とても荘厳な感じがしました。
この『館林散歩』ブログは、月刊紙「ポンポコぽん」でも紹介されています。
つるの剛士さんの話題で将棋の話が出ましたし、お正月も近いですから、懸賞詰将棋を出題しましょう。
「詰将棋」というのは、王手王手の連続で相手側の玉を詰めるクイズです。
「詰める」というのは相手玉を動けなくすること。この状態で勝負の「勝ち」が決まるので、将棋の終盤の練習にはもってこいであるばかりか、「パズルクイズ」として「指し将棋以上に好き」というマニアもいるくらい。
この問題は5手詰め。「最近指していないけど、子供の頃は友達と将棋を楽しんだよ」という方が熱心に取り組めば、きっと解けることのできるレベルです。
ヒントは『捨て駒で守りの金を無力化する』です。がんばってください。
タレントの「つるの剛士」さんが、館林に将棋を指しに来たことがあります。
CS放送で放映されていた『つるの剛士の道場破り』という名前の番組で、つるのさんが台宿町にある「日本将棋連盟館林支部道場」通称「福島道場(TEL0276-73-0326)」に道場破りにやってきたのです。
この頃のつるのさんは、ウルトラマンダイナの主人公役でデビューし、深夜番組のパーソナリティーとして知られた存在でした。
一方で熱心な将棋ファンとしても有名で、北関東地区の将棋道場を私・マリオ武者野と一緒に巡っていたのです。
館林といえば「上州のかかあ天下」ということで、六郷公民館の将棋サークルで毎週腕を磨いている平野さんと対戦することになりました。
戦いは一進一退の好勝負。大盤解説を見守るファンが手に汗握る大熱戦となりましたが、最後につるのさんが詰めを誤り、平野二段の辛勝するところとなりました。
この道場破りシリーズの少し後に、つるのさんは「クイズ!ヘキサゴン」の常連出演者となり、大ブレークしたのです。平野さんの家には、この番組のビデオ映像が家宝として大切に保管されていることでしょうね。
利根川沿いを中心に大きな工場が増えてきた明和町ですが、私のイメージの中で明和町を代表する物産は、いまも「シクラメン」と「梨」なのです。
東京に住んでいた頃、寒くなってくると「これって明和村(当時)から来ているんだろうな」と古里を思い、寒い中で花を咲かせてくれるシクラメンを毎年買ったものでした。
明和町産の野菜がたっぷり入った豚汁をごちそうになり、シクラメンが当たる抽選会にも参加しましたが、こちらは残念賞でした。
11月の声に秋風を感じ、「さすがに梨は季節外れなのだろうな」と考えていましたが、ありました!梨組合のブースが。
大きくて色つやのよい梨が並んでいたのは本場ならでは。おそらく産業祭に合わせ、ご苦労のすえ出荷時期を調整したのでしょうね。試食梨を頬ばるお母さんと赤ちゃんもうれしそうです。
一部では「補助金で建物ばかり作って、その後は使われていない」とハコモノ行政を批判する声もあるようですが、館林に限ってはその批判はまったく当たりません。
写真は城沼総合運動公園の「陸上競技場」ですが、市民体育祭が行われた翌日に、中学校駅伝大会が催され、その数日後にはゲートボール定例会が開かれていました。
写真を撮る私の後ろ側は、野球やサッカーもできる「多目的広場」なのですが、そちらでもゲートボールの競技会が行われていました。
出番が終わったのか汗を拭いていたおばあちゃんに話を聞きますと、練習をかねたミニ大会は週2日。定例大会が月1度あり、その参加者が毎回100人を優に超す!という大きな組織なのです。
プロ野球のオリックス・バッファローズから1位指名を受けた、前橋商業高校の後藤俊太選手も産フェアの催しで館林に来ていました。
私の息子が友人たちと前橋商業高校のブースに行ってみると、ラッキーなことに後藤選手が座っていた。
そこで、おそるおそる広告の裏紙に「サインしてください」とお願いしたところ、書いてくれたのが写真の1枚というわけです。
こうなると「私も」「僕にも」と希望者が相次いで、前橋商業のブースは、時ならぬサイン会場になってしまったことはいうまでもありません。
◎追記、後藤選手は11月21日にオリックスと仮契約を結んだという記事が報じられました。「走攻守のすべてに秀でた選手」とオリックスの編成副部長のコメントがあります。順調に成長して、息子のサインの価値を上げて欲しいものですね。
館林からホスト役として主に「産フェア」に参加したのは「館林商工高校」です。
館林商工高校は創立25年ほどの比較的新しい高校で、館林高校商業科などと合流して新設されました。
「館林商工」という校名があり、最寄り駅も館林の「茂林寺前」ですが、何と所在区分は邑楽郡明和町南大島にあります。
それくらい邑楽郡と館林市は一衣帯水の関係にあるわけで、私は「時間的距離が縮まったのだから、邑楽郡と館林は合併すればよいのに」といつも主張しています。
ところで、館林商工でいま一番話題なのは「ちんどんガールズ」。私は子供の頃、新規開業店を広報するチンドン屋さんが通ると、あの楽しい音色に誘われて演奏団をにいつまでも追いかけた記憶がありますが、チンドン屋さんが絶えて50年近くも経った頃、「こんな可愛い娘たちで復活するとは!」と驚いています。
産フェアぐんま(第17回群馬県産業教育フェア)が、11月12日・13日に館林市と明和町の会場において行われました。
実は私・・「産フェア」という催しを知らなかったのですが、中学生の息子に「明日は文化会館で産フェア見学の課外授業だよ」と聞いて、初めて「実業高校を中心とした県内発表会」であることを知った次第です。
普通高校を卒業した私は、今頃になって「五十の手習い」でパソコン検定とか簿記などのライセンス試験にチャレンジしているのですが、友人から「その資格なら、息子が商業高校の頃に取得したよ」なんて言われてギャフン。
産フェア見学から帰った息子も「普通高校の授業より、世の中に直接影響のある勉強をしていることが分かった」と話していました。

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